2011年01月06日

のびゆく浜松



浜松の資料を検索しているとYoutubeに「浜松市制ニュース」を
見つけ昨日は見入っていた。

これは浜松市が持つ動画チャンネルの一部のようです。
昭和34年から36年までの10本ほどの動画は私たちが幼かった頃
の浜松の様子を見ることができます。

その中で現在の国道一号バイパスが開通する前の、浜松中央の
板屋町を通過する旧国道一号の様子を見ることができます。



浜松市制ニュース10(昭和36年)

懐かしい(当時はまだ赤ちゃんでしたが)風景とその頃の浜松
の様子がとてもよくわかるものでした。

その他のニュースを見れば当時の浜松の予算やまだ予算段階で
あった市民会館や児童会館、体育館などが登場します。

懐かしい動物園や市営元城プールなどを見ることもできます。

うれしいのは当時のナレーションのアナウンスの言葉です。

当時のニュースに添えられるナレーションは「大喜びです」と
か「みんなでがんばりましょう」などとても美しいのです。

地域ぐるみで何かに取り組むこと、地域の問題に学生や若者が
ボランティアで取り組む様子、まだ35万人ほどの小さな浜松が
周辺(篠原や湖東村など)と合併してゆく様子などなど。

私たちが社会科の授業の副読本であった「のびゆく浜松」さ
ながらに見ることができます。

お時間がある方は私たちの浜松市のちょっと昔をご覧になれ
ますからおすすめします。

なにもかも美しい伸び盛りの頃を見るとちょっと元気になれ
ますよ。  

Posted by イチロー at 11:30Comments(0)TrackBack(0)ナツカシ浜松

2009年12月05日

彩画堂通り



浜松の連尺通りの一角に彩画堂という画材店があります。

美術と音楽と本が好きという高校生は高校時代を新聞部で過ごしましたが、美術
部にを顔を出す、そこはフォークソングをする仲間が多くいたからです。

美術部で音楽をして部では新聞を書く、今もそのラインから抜けていないからやは
り子供の頃に親しんだものが一生のものとなるのでしょう。

美術部の面々が通うのがこの彩画堂、当時は全てが手描きの世界、グラフィック
を目指す友人の画材、油を目指す友人の画材と付いていくうちに画材好きともな
る。引き出しの中から用紙や絵の具などが取り出される度に夢中になっていった
のです。

思い出すのは彩画堂の手提げ袋です。さまざまな大きさがありましたが、弁当箱
を入れるのに丁度よいほどの袋をもらい、通学に使っていたものでした。

美術部で彩画堂に通うものだけが持つ袋は、ちょっとだけ差別化できる。
当時の高校生たちは鞄を薄くするのが流行っていて、弁当は別の袋に入れて行く
のです。

画材は高くてなかなか買えないから袋にガムテープなどでツギをするのもちょっと
お洒落だと思っていたのでした。

当時から今も彩画堂はそこにある。用もなく画材を眺めたくなるのでした。  

Posted by イチロー at 10:55Comments(2)TrackBack(0)ナツカシ浜松

2008年11月20日

待ち合わせはどこ?



「待ち合わせはどこにしよ」

学生時代を浜松で過ごした人はご存知のとおり、浜松の中心街、私たちが
”マチ”と呼んでいた一帯にはいくつかの待ち合わせポイントがありました。
(誰と待ち合わせとは言いません)

浜松のバスターミナルの中心は現在の浜松駅前ではなく、現在のクリエート
浜松あたりにあった遠鉄浜松の前でしたから、ここも一つのポイントでした。

中心街に参りますと、写真は旧松菱前、ここらあたりも待ち合わせの人が
立っておりましたし、その向い側のヤマハ前もよく使われたところでした。

ちょっと・・・どう言おうかな、、、現在のコンプマートの向いあたりにあった遠
鉄名店ビル前もある種の待ち合わせ場所でしたが、ここはなかなか緊張す
る場所でしたよ(理由は言わず)

久しぶりに鍛治町の旧松菱前で信号待ちをしていると松菱の前にさみしい風
が吹いていました。

ある年齢の方は、ここから入った松菱の賑わい、その向こうの頭がつきそうな
天井が低いエスカレーターを思い出すことでしょうね。

今は風が吹くのみ、ここにあの店がやってきて、再び賑わいが戻りますことを
望んでいます。

若者たちには待ち合わせができるオシャレな大きな店が必要ですからね。  

Posted by イチロー at 14:06Comments(0)TrackBack(0)ナツカシ浜松

2008年03月02日

マチに行く



昨日に続いて和音さんからいただいた懐かしい浜松の写真で旅をする。

注釈では遠州電気鉄道本社から北を見た写真であります。
つまり名鉄ホテルあたりから板屋町交差点方面(北)を見ていることになる。
通りの向かって左には今もホテルなどを広く経営する辻梅旅館が見えています。

浜松の子は中心街に行くことを「マチに行く」と言っておりました。
華やかなマチに行くには服もよいものを着せられにわかづくりのお坊ちゃまにな
ってバスに乗って出てくる。
中心街とは買い物、食事、ウインドウショッピングをする浜松唯一の場所であり
ました。

じつはこの通り沿いにあった父の実家に小さな頃住んでおりました。
何年の写真なのかは不明ですが、遠く右置くにあるような気がしています。
株で当てた祖父の長男として育てられた父は、三味線、琴なども習い毎日遊ん
で暮らす放蕩息子であったと叔父たちは言う。
その子も、少しそんな気があっていけません。

辻梅の裏手には今はなき繊維問屋街が細い道の両側に並ぶ。

広い通りを行き、遠州鉄道がこの道に交差した向こう側に祖父の家はありました。

大人になり、東京から帰ってくると可愛がってくれた祖父と家を継いだ叔父に会い
にゆく、目的は家にはなかった乗用車でした。

カローラを運転させてくれたのです。

今は暗渠(川の上にふたをしてしまったこと)になった新川で叔父の趣味の船の
ラジコンを浮かべて遊んでいた。
浜松の昔はまだそう遠い時代ではないのです。

浜松駅からカローラ、カローラと思いながら歩いていた30年ほど前の話でした。  

Posted by イチロー at 11:52Comments(0)TrackBack(0)ナツカシ浜松

2008年03月01日

雨のバス停で



和音さんとは写真好き仲間、ご厚意で旧い浜松の写真の絵葉書の写真を預
かりました。
その写真を見ては、少し我々より先輩たちの頃の浜松を懐かしんで見てお
ります。

旧い写真は両親が喜ぶもの、先日も浜松信用金庫の冊子を持ち帰りますと、
父が若い頃の話をしてくれます。そんな時間を持つのも楽しみの一つです。

写真は現在の名鉄ホテルの場所にあった旧新浜松駅舎です。
現在は浜松駅までつながりましたが、遠州鉄道の始点はこちらにありました。

この駅の建物の前にはバス停がありまして、バスターミナルの遠鉄浜松まで
行かなくてもバスに乗れます。
建物にはパーラー”グリーンパーク”がありまして子供ながらに入ってみたか
ったものでした。

小学校の頃、バスはまだ運転席の前にでっぱったボンネットがあるボンネット
バスが走っていました。
学校の教室も木の床でたまにワックスを塗りましたが、バスも傘が持ち込む雨
に対応していたのでしょう、独特のワックスを塗り、真っ黒になっていたのです。

ときどきそのワックスの匂いが強いバスに乗ったものでしたが、雨の日のバス
は人いきれで窓が曇るほどです。
きつい匂いを思い出すのは、そんな日の記憶なのでしょうね。

バスには車掌さんが乗り口のすぐ後ろにいて、行き先を言うと切符を売ってくれ
たものでした。首から提げた黒いがま口のようなバッグに切符を入れて、おつり
もそこから出しておりました。

バスはそれから車掌さんが乗らないワンマンバスになりました。
ひところ、バスには「ワンマン」と書いてあったものでしたが、今はもう書いて
ないのでしょうね。

雨の日のワックスの香り。

新浜松駅から乗ったバスの思い出の一つなのでした。  

Posted by イチロー at 14:51Comments(6)TrackBack(0)ナツカシ浜松

2008年02月24日

お父さんの二人言



先日、今は無き遠鉄浜松駅ターミナルのお話を書くと、思わずたくさんの仲間から
賛同をいただいた。

古くは歴史から学ぶけれど、近い過去はその時代を生きた我々が語り継ぐのが
旧くを訪ねるお話であります。
懐かしいというだけでなく、旧くを語りながら今を生きる、街は若い世代だけのもの
では無い、我々の青春の跡があちこちに残り、または埋もれているのであります。

早速声をかけていただいたのは、ブログ”お父さんのひとり言”を書く和音さん。
一度お目にかかっただけですが、同世代でカメラ好き、ちょっとシャイで力持ち?
という共通点があり、お互いのブログを応援しあう仲間の一人です。

「古い浜松の風景の絵葉書画像がありますよ」と11枚もの写真を送っていただき
ました。

少し、和音さんとボクの世代より前の時代ではありますが、これから少しづつ懐か
しい浜松のお話ができたらいいなと思います。

さて、この写真のお話はまた後日にいたしますが、どこの駅かお分かりですか?

ブログに書いた記事から仲間と一緒に何かを伝えるはじまりが生まれる。
とてもうれしいことです。

ブログに書かれることは私たちが住む町で起きたことが綴られていきます。
いつか多くのブログで使われた写真も文章も、この時代を生きた我々の記録として
使われるはずです。

ブログは今を表す文化なり、誰もがその文化を綴る仲間なのです。

和音さんに感謝しつつ、明日から少しづつ紹介していこうと思います。  

Posted by イチロー at 00:28Comments(2)TrackBack(0)ナツカシ浜松

2008年02月20日

遠鉄浜松から



まだ若い頃は、決して振り返るまいと思い、旧きを訪ねることをかたくなに拒んだ。

若さとはひたすら前へ向かってゆく時期、そんな時を過ぎ、ふと振り返れば若き日
に過ごした街はなくなっているのです。

かつて浜松のターミナル駅は、現在のクリエート浜松の場所にあった遠鉄浜松駅
でした。

各地からバスに乗ってくればこの駅に降りる、電車から降りてバスに乗り換える。
現在の浜松駅バスターミナルの役割を持っていた駅でした。

電車のコンコースから降りれば一段低いフロアがバスターミナル、南から1番~
となっていて、学生たちはそれぞれの学校に向かうバスに乗ってゆく。
1番のバス停は確か北高、市立などに向かう場所だったようにおもいます。

前にも思い出し書きをしたように、遠鉄浜松の駅に入ると、右の角に立ち食い蕎麦
屋がある。
真っ黒いおつゆの濃い味の蕎麦屋には腹を減らした高校生たちが並んで食べてい
たものでした。

高校生になってこのターミナルを利用するようになると、高校の制服を覚えます。

今は変わってしまいましたが、学生服の襟のバッチを見て覚える男子学生、セーラ
ー服の色やラインの数、デザインで覚える女子学生たち、いろんな学校の生徒が
ゆく駅は楽しい出会いの場になっていました。

朝の雑踏のターミナルを過ぎると、通う学校へ向かう電車に乗る。
通勤とは逆向きの電車はとても空いておりました。

冬には電車のシートがヒーターで温まり、眠くなるような通学電車なのでした。

セーラー服には星がついていたり、エンジのリボン、三本ライン、黄色のライン、など
どの学校もとてもお洒落に見えたものでした。

我ら男子の学生服の中はボタンダウンシャツ、色のついたものを着て、少しだけ個性
を出して、先生につるし上げられていたものでした。

これを書こうと遠鉄浜松の写真をWEBから探す、でも見つかりません。
一枚だけ、遠鉄線路端探訪というサイトを見つけ、1枚を絵画加工してお借りいたしま
した。

暮らしなれた街、なにげなく通うターミナルもいつかは変わってしまう。
浜松の今を写真で残しておくことも大切なことですね。  

Posted by イチロー at 00:46Comments(8)TrackBack(0)ナツカシ浜松

2007年07月04日

カルキ玉の夏



Cafe terrace 1丁目のyohさんが俳句のお題にしたように、早くも学校ではプ
ールの授業が始まっています。

先日も小学校のプールの横を通り過ぎると、あの「ワーワー」と楽しそうな子供た
ちの声と水しぶきの音がする。

昔と違って学校のプールは子供たちを守る為でしょう、高い目隠しがあって中を
伺うことができなくなりましたね。

学校ではまだ大人が海やプールに行こうと思う前にプールが開かれるのでしたね。

さて、プールの思い出は夏休みに透明なプールバッグにバスタオルと海パンを入
れて通い僕たちは真っ黒になったものでした。

プールの水を衛生的に保つ為に、先生はときどき「カルキ玉」を放りこみます。

丸くて少し平らなカルキ玉はプールのあちこちに沈んでいます。
それを目掛けて「潜水」で泳ぎ、いくつもカルキ玉を拾ったものでした。

あの玉を拾うと手がカルキ臭くなったものでした。

カルキ玉って今もあるのでしょうか?

全校が集まるプール開きなどでは、プールの中をみんなで同じ方向に歩いたり
泳いだりして水流を作ろう!と先生が提案しました。
ぐるぐる回っているうちに、学校のプールは流れるプールのように遊べたもので
した。

そういえばプールに何年も行っていないなあ。
まずはこのポンポコ腹が大問題、プールで運動する前にシェイプアップの運動
をしなくてはいけません。

当分いけないなあ・・・・  

Posted by イチロー at 15:59Comments(5)TrackBack(2)ナツカシ浜松

2007年06月30日

イーゼル泥棒の夏



絵の具という言葉に触発されて、遠い記憶が戻ってきました。

高校に入って入部したのは新聞部、今も変わらず原稿書きをするのはその頃から続く。
カリカリと鉛筆で書き、ゴシゴシフッと消しゴムカスを吹き飛ばしておりました。

新入生が入ると我が母校は「新入生を歓迎する会」を体育館で行います。
そこに、我が運命を変えた(大げさ)フォークソングやビートルズを歌う先輩達に出会う。

そんな先輩たちの巣窟が美術部なのでした。
部室に行き、原稿の割り当てをもらうと美術部に入り浸り、「オンガク」を始めた。

新しいことをドンドンやりたい高校一年生は得意な文が書け、絵を見ることができ、音楽
ができる高校時代を楽しんだのでありました。

さて、夏休みはギターのやりすぎで勉強をしないから人生初めて「赤点」をもらう。
夏休みも2週間ほど学校に通い、補習授業を受けるのです。

そこにはズラリとギター仲間が揃う。

「しっかり勉強してテストにうからんと上にあがれんぞ!」などという先生の言葉も上の空。
そこに仲間がズラリといれば、午後からはまたギターを楽しむことになるのです。

美術室というのは歌本などを置くのにいい、イーゼルがあるのです。
イーゼルを立て、本を置き「次、何やる?」なんて囲んでいる。

高校生には時間は溢れるほどあり、一日が今の倍ほどもあったのです。

補習日程も終わる頃、バンドの練習は学校から近い仲間の家の離れとなる。
我ら、ギター不良学生は先生の目を盗んでイーゼルをそれぞれ担ぎ出した。

油絵を描くキャンバスを置くイーゼルは、いまや店頭の案内や結婚式のウェ
ルカムボード立てとして使われているのを見ますね。

それにしても遠州鉄道の赤電車に乗り、あの頃の遠鉄浜松駅からバスに
乗りイーゼルを運んだはず。

今もそれが「美しき高校時代の泥棒の収穫」として家にあるのです。  

Posted by イチロー at 16:21Comments(0)TrackBack(3)ナツカシ浜松

2007年06月07日

海とプラムと



27度もあって、海風が吹いているならば、気まぐれに海に出てみる。
そんな時間が一日のうち、少しあってもよいのです。

高校進学とともに越してきた海沿いの町で、僕は海を見つけた。
夏の開け放った夜の窓からは、ザザーと海の寄せる音が聞こえ、松林の向こう
へおいでよと誘っていたのですからね。

父の使わなくなったクーラーボックスを物置から出し、冷蔵庫の氷を入れ、裏の
酒屋に行ってビールを買い、隣のスーパーでプラムを買い込みます。

誰が教えてくれたのか、乾いた喉には冷やしたプラムが最高だからです。
じつは覚えたてのプラムの味は、なんだかオシャレに思えていましたからね。

サンダル越しに熱い砂を感じて汗びっしょりで松林を抜ければこんな海が待って
います。
高校生の僕には、時間が溢れるほどあって、一日で今の十倍ほどの時間を持
っていた。

波が寄せるギリギリのところのひんやりとした砂に腰を下ろして、ビールをカシュ
ッとあけるのです。

寝ころがって足先だけを波に洗わせていれば、耳にはシューシューという波と
砂があげる声だけが聞こえているのです。

もちろん、高校の同級生たちが代るがわるやってきて、家に泊まります。
そんな時はビールを倍買って、プラムは少し減らします。

喉を潤すビールを飲めないやつは、不思議な初めてのプラムに少し感動して
プラムと海を楽しむのです。

毎日が海パンいっちょうの暮らし、もちろん何日かは補習に行かなくてはなり
ません。
でも、成績がおそまつな仲間は、みんな海に連れて帰ってしまいます。

母さんは決まって「中華飯」を作ってくれました。
「おまえんちの中華飯最高だな」と評判で、母もそればかりを出すのです。

今は海沿いの堤防の車の中、あの頃のように、オイチニ、サンシッと海に入る
準備をしている青年たちを見るのみです。

今年の夏は昔の仲間でも誘い、母に中華飯を頼んで、プラムとビールをどっ
さり買って行ってみましょうか

みんなジジイになってきたからな、一人くらいはノリで来てくれるかな。

49歳の夏も海とプラムとビール1ダースです。

クーラーをかついで歩いていけるかが・・・問題だなあ・・・  

Posted by イチロー at 01:24Comments(0)TrackBack(1)ナツカシ浜松

2006年03月17日

ブランコ



小学2年生で浜松市積志小学校に転入した僕を先生はお定まりの紹介をして
一番後ろの席に座らせました。
そこからはじまる、楽しい学校生活、僕は休むことなく学校に通ったのです。

小学5年生のある日、住んでいる団地の幼稚園で遊んでいた僕たちは、夕方
となり、一人二人と友達が帰っていきました。

夕暮れせまる空はあの夏の夕焼け、まだ帰りたくない僕はブランコをゆらす。
そこに、一人だけ近所の女の子が一緒にブランコにゆられていました。

なぜか頭の中に坂本九さんの歌が浮かんできたのです。

上をむいて歩こう

どうしてこんなことを覚えているのでしょう。
なぜかトキメいていたんでしょうね。 それを30数年も覚えているなんて
もうその子の名前も顔も忘れてしまっているんです。

ともだち

この曲はその後、坂本九さんの歌だと知りました。
なぜかトキメくのはこの曲も一緒。

きっと忘れられない時に聞いたのでしょう。

その団地、今でもときどき遠回りして行って見ます。

なぜかその団地にある、あのミッション系の幼稚園の十字架をかつて
仰ぎ見たような気がするのです。

まだあの牧師さんは住んでいるのでしょうか  

Posted by イチロー at 11:26Comments(0)TrackBack(21)ナツカシ浜松

2006年03月17日

少年時代



この歌を聴くと僕も遠い少年の頃を思い出すのです。

僕は小学2年の時、浜松の下池川(NHKがあり学芸高校の裏にある牛山がある町)
から、郊外の大瀬町に引っ越してきました。

町で育った僕には学校(積志小学校)まで2キロほどを田んぼの中の道を歩いて通
学するのが楽しくて、田んぼの水路をのぞきこんでザリガニを探したり、春にはレン
ゲが一面に咲く中に、突然変異の白いレンゲを探したり
学校への行きかえりは楽しさいっぱいの道でした。

夏にはまるでトトロに出てきた少年のように、自転車に乗り、近くにある八坂神社へ
行き、大きな椎の木に登ります。
その木は登るのにちょうどいい、こぶがいっぱいあり、ちょっと工夫すれば小さい子
でも太い枝に登ることができたのです。

その太い枝の上は、僕たち少年の基地、夏ごろには秋にいっぱい実をつける椎が
緑の実をどっさりとつけたものでした。

トトロは誰にでもある少年少女時代の原風景。
白い入道雲を何回みあげたでしょうか。

夕立をこの椎の木の下でやりすごしたこともありました。

そんなことを思い出させてくれるのはこの歌

少年時代

そこにはランニングに半ズボンの少年がいまでも住んでいます。  

Posted by イチロー at 00:57Comments(3)TrackBack(0)ナツカシ浜松

2005年11月27日

破れたハートを売り物に


 今日もナツカシ話浜松編。ナツカシしかないのかと言われそうですがもう少しおつきあいを。
浜松近隣住民は浜松中心街のことを”マチ”と呼んでおりました。
「街いこうぜ!」「街行ってきた」で表される浜松の街、当時はデパートも全盛時代、松菱、丸井、西部、ニチイに加えて遠鉄名店ビルというショッピングビルがありました。
ここは現在のコンプマートの向かい側、遠鉄百貨店がオープンして吸収されるまで浜松田町中央通りのまさに名店でありました。
ここはさまざまなバスの停留所もあり、便利な場所、と同時に高校生などの溜まり場でもありました。
地下の食品街で立ち食いソバを食べたり、上の階には食堂もあり、屋上では歌手(昔はアイドルなんていいませんでしたね)の握手会なども開かれておりました。
今日のオハナシは確かこの1階にアクセサリーショップがあったのです。
当時平凡明星などの広告ページにはカップル用のアクセサリーの通販ページがあり、2分割のハート型ペアペンダントとか、カップル用のリングなどが売られていましたが、その実物がここでも買えたのです。
カップル、まあ”つきあう”ことになればハートのペンダントなんて買ったりしたものです。
これがなかなか恥ずかしくてつけられないシロモノ、ハートにカギなんてのもありました。
当時虎くんも1組ぐらいは買った覚えがあったりします。
誕生日のプレゼントなどを買うにはもってこいのお店もたくさん入っていました。
 このビルの前のウインドウ前はちょっとしたナンパスポットでもあるのでした。
土曜の午後はこの辺にたむろするのが常、映画帰りの女の子を誘って遊びに行こうなんて考えていたものでした。
ヤマハでレコードを見て、楽器をいじり、ニチイ、サゴーのあるモール街をブラブラした後、デートなら不二家パーラーに入り、名店ビルに至るなんてコースで歩いていました。
もちろんデート中なら名店ビル前を歩き、見せびらかせで歩いたものでした。
しかし、あの通販パチ物みたいなハートのネックレスはどこに行ってしまったのでしょう。
WEB上からみつからない。
きっとみんなの実家の古い机の引き出しの奥にでもしまわれているのでしょうね。


  

Posted by イチロー at 23:35Comments(12)TrackBack(0)ナツカシ浜松