珠のように

イチロー

2008年01月27日 18:09



珠のような(赤ちゃん)であったり、珠玉の作品などと使うように、私たちは宝石の
ように大切なものを”たま”と表現する。

僕もそんなことを表す言葉に「宝石きれいな」と使っています。
小さくて美しくて二つとないものを大切にする気持ち、これはもちろん”人”にもあて
はまる。

私たちの人生は宝石きれいな珠玉の珠を見つける旅でもある。
そして案外、その珠はもう手に入れていて、その輝きに気づかないという青い鳥
の話のような人生を送っているのです。

さて、小さな珠の写真は友人であり、兄貴分である”ぶん屋”さんからお借りしま
した。

蜻蛉玉は手作り、ぶん屋と心をひとつにする職人さんが作っております。
ぶん屋さんに「世界にひとつのものですね」と聞けば、「否」と言う。

ぶん屋さんが蜻蛉玉に望むものは芸術品ではなく、誂えとは”揃い”ができること
を必要とする。

ゆえに、蜻蛉玉作家ではなく、蜻蛉玉職人さんにぶん屋さんはお客さまの誂えを
託す。 小さいもの、少し大きめなもので揃いの玉ができる。
これが職人なのだそうです。

小さき宝石のような玉なのは、持つ人の心に輝く光を持っているからです。

職人さんは決して多作ではありません、ゆえに出会いはぶん屋さんの店にある
箪笥から出されるものには同じものはない。

けれど、同じ意匠のものならば、二つ拵えることも可能なのです。

珠玉の玉はたった一つという意味ならば、たった一人の人と揃いで玉を持つ。
春の心に響いて光った玉を眺めているうちに、ぶん屋さんで聞いたことをお話した
くなりました。

珠にはそれぞれ物語があり、こんな風にお話をしてしまう力があります。

ぶん屋さんとの出会いも珠のような大切なものです。
ご紹介したいと思います。

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