2008年10月07日11:48
ヤマハラグビー部を取材した5年の思い出を綴ろうと初めて参加した2003-2004
のトップリーグ開幕イヤーから思い出の写真を眺め、さまざまなことを思い出して
いる。
何もかもが新しく、応援を作り上げようというさまざまな盛り上げの工夫の中に
いることは試合ごとに発見をし、そうだと確信した頃でした。
今さらでもなくトップリーグの”応援”スタイルを変えたのはヤマハの応援団の出
現でした。
開幕年にはどのメディアも異物のように扱ったのは、組織もないのに統制がとれ
たヤマハの応援のインパクトの高さから注目されたものなのでした。
企業をベースにしながらJリーグのように”地元”応援を広げていこうとするトップ
リーグはどの試合どの会場でもホームとアウェイと対戦チームを位置づけており
ましたが、どのチームも自前のホームスタジアムを持っているわけではありませ
んでした。
ヤマハはサッカーとラグビーの共用スタジアムとなったヤマハスタジアムを持つ
恵まれたチームの上、地域で盛り上げているサッカーのジュビロの名称を、ラグ
ビーとレースにも使い、三位一体で地域を盛り上げることにしたのです。
いまだに言われることに、ヤマハラグビー部はヤマハ発動機の企業チームという
だけではありません、地域の代表として応援されることになったのです。
応援を続ける中で、ある応援仲間の女性に「青く染まれ」という言葉をいただき
ました。もっともっと応援する仲間が欲しい、彼女はそう言ったのでした。
トライの瞬間、ゴールが決まった瞬間、バックスタンドのヤマハ応援団から一斉
に舞い上がる青いフラッグはどの会場でも応援の力を感じさせるものでした。
そして「GOGOヤマハ、TRYTRYジュビロ」のコールは他チームの応援を圧倒し、
今に繋がる各チームの応援コールの基礎となったのです。
ヤマハが変え始めた応援という力は、確かにトップリーグの選手たちの背を押し
はじめていたのでした。
ヤマハへの応援の心はSEAESな二人でも書いています。
青く染まれ≫
カテゴリー │ヤマハラグビー部
ヤマハラグビー部を取材した5年の思い出を綴ろうと初めて参加した2003-2004
のトップリーグ開幕イヤーから思い出の写真を眺め、さまざまなことを思い出して
いる。
何もかもが新しく、応援を作り上げようというさまざまな盛り上げの工夫の中に
いることは試合ごとに発見をし、そうだと確信した頃でした。
今さらでもなくトップリーグの”応援”スタイルを変えたのはヤマハの応援団の出
現でした。
開幕年にはどのメディアも異物のように扱ったのは、組織もないのに統制がとれ
たヤマハの応援のインパクトの高さから注目されたものなのでした。
企業をベースにしながらJリーグのように”地元”応援を広げていこうとするトップ
リーグはどの試合どの会場でもホームとアウェイと対戦チームを位置づけており
ましたが、どのチームも自前のホームスタジアムを持っているわけではありませ
んでした。
ヤマハはサッカーとラグビーの共用スタジアムとなったヤマハスタジアムを持つ
恵まれたチームの上、地域で盛り上げているサッカーのジュビロの名称を、ラグ
ビーとレースにも使い、三位一体で地域を盛り上げることにしたのです。
いまだに言われることに、ヤマハラグビー部はヤマハ発動機の企業チームという
だけではありません、地域の代表として応援されることになったのです。
応援を続ける中で、ある応援仲間の女性に「青く染まれ」という言葉をいただき
ました。もっともっと応援する仲間が欲しい、彼女はそう言ったのでした。
トライの瞬間、ゴールが決まった瞬間、バックスタンドのヤマハ応援団から一斉
に舞い上がる青いフラッグはどの会場でも応援の力を感じさせるものでした。
そして「GOGOヤマハ、TRYTRYジュビロ」のコールは他チームの応援を圧倒し、
今に繋がる各チームの応援コールの基礎となったのです。
ヤマハが変え始めた応援という力は、確かにトップリーグの選手たちの背を押し
はじめていたのでした。
ヤマハへの応援の心はSEAESな二人でも書いています。