洒落柿しゃれがき

カテゴリー │色字典



洒落の中でも駄洒落は楽しく、たった五十音で組み上げられた言
葉の要素をバラバラして似た言葉を見つけては楽しんでいる。

日本の伝統色のその色と名前を見て何が書けるかに挑戦していま
す。

言葉はそれぞれに意味を持つが、まるで同じ音、近い音を持つ言
葉でもまるで違う意味を持つ。
ところが違う意味で同じ音だからこそ洒落はできあがる。

けれども意味を持つ言葉同士を取り替えれば他の言葉に続くその
言葉の組み合わせ上に面白さが生まれるのである。

言葉と言葉を組み合わせて意味のある会話をする私たちは、時に
言葉と言葉の音を用いて別な意味を作り上げる。

これは人と人との関係にも通ずる私たちの文化そのものである。

人は話をすることで面白いことを起こしています。
会話の中で同意したり異質だと思ったり、またどちらかの意見に
偏ったりしながら、全く別の考えが生まれたりする。

その会話には洒落という要素も必要であり、その言葉遊びの中か
ら導き出されるアイデアもあったりする。

駄洒落などと思わず、その言葉遊びにのってみればまた別の言葉
と意味を使いながらまた見つかるものもある。

洒落が言葉遊びならば、それはセンスを持って洒落ているという
べきである。


 

桜色

カテゴリー │色字典



日本の色にはさまざまな名前がつけられています。多くの色は生活の中で生ま
れたもの、その名には季節のわずかな変化までを楽しんで暮してきた日本の暮
らしを表しています。

そんな色の名前をヒントに何が書けるか挑戦してみたくて新しいカテゴリー”色
字典”に綴ろうと思います。

第1回は”桜色(さくら色)”です。

桜の季節になると、桜餅のように淡いピンクのお菓子が売り出されます。
和菓子屋さんは少し季節を先んじて発売するのが仕事、発売予定を聞けばや
ってくる季節を表す色がわかるのです。

桜は待つ楽しみを持っています。まだ寒さの2月頃から細い枝に吹き出した芽
のふくらみを待ち、芽の色を楽しみます。
ふくらみが大きくなると共に芽は花を予想する色がさしてきます。

冬の終わりの真っ黒な枝に紅が差しふくらめば春を待つ心が加速してくる。
桜待ちの日をおくることができるのです。

熱海からはじまる梅が過ぎ、河津の濃い色の桜が咲き出せば春の色待ちと
なり、見上げる桜の枝に「一番」を探すようになります。

桜の色は見上げ色、思うよりも陽を透かせて白い色だと気づきます。
花が咲くことを心待ちする私たちは何分咲きだと知らされて春の訪れのカウ
ントダウンしています。

ピンクとか桃色とか桜より遅い春爛漫を指す桃の色を使うことはできません。

桜色、さくら色、待つ花の色は何物にも比喩できない色として使われるのです。


 

小豆色

カテゴリー │色字典



日本の伝統色とは生活の中で生まれた色、繊細な色分けを生むのも日本
人の感性であります。
それを見て何が書けるかという新たな挑戦であります。

今朝は小豆色、文字通りでありまして豆屋さんにいきますと袋に入ってい
ます小豆はさまざまなご馳走になる貴重な豆であります。

甘いものが好き、特に汁粉やゼンザイに目がありませんで、粒を残す方が
好きでありましてすくってはいただく甘さに目がありません。

日常に使います豆には大きな豆が大豆、小さな豆は小豆とペアであります。
どちらも大切な大切な食べ物です。

サックサックとお手玉の中に入れた小豆を布越しに感じるのもうれしいもの
でした。

小豆に限らず子供の頃に農家に育つ友達を訪ねると、縁側の外にムシロ
を敷いて豆を乾している。
せっせと乾いたさやを叩いては豆を取り出すおばあちゃんがいたものでした。

小豆まんま、赤飯のことですが今でも好きなのは、小豆を拾いながら食べた
子供の頃の懐かしい味を覚えているからでしょう。

小豆があればお赤飯かお汁粉になる。それはそれはお楽しみ。

そう言えば今年はゼンザイがおいしいお店を紹介いただきました。
三島にあります「欅(けやき)」という料理屋さんです。

ゼンザイを注文すると三段に塩昆布、おかき、柿が一緒に出てきた。
たっぷりの椀に粒がいっぱいの甘味に塩昆布で、話がはずんだものでした。

小豆色はやさしい甘さの色です。誰でも優しくしてしまいます。


 

黄金色

カテゴリー │色字典



日本の伝統色とは生活の中から見つけられた色である。日本人の感性が細やか
なる頃、多くの色が見つけられ名づけられたのです。

そんな伝統色の色や名を見て何が書けるか挑戦しています。

今朝は黄金色、黄金色は田の稲の実りの色として使われますが、今年は別の
使い方を覚えました。

四月の中下旬、萌え出した茶畑の一番の芽の色は緑とは呼ばず、東山茶業組
合の皆さんは黄金色だと言う。

細かい金色のうぶ毛を生やした金色の芽が茶畑を覆い、まるで黄金の絨毯のよ
うに見えるのです。

一番茶(新茶)を淹れると細かい粉のようなものが浮いてきます。
これが茶の金色のうぶ毛なのだそうです。
写真撮りにおじゃましたお茶工場の中にはこの粉が舞っています。

機械を覗こうと梯子に足を乗せるとツルリと滑ってしまった。この金色のうぶ毛は
いつの間にかあらゆるところに舞い降りているのです。

黄金の色の虫は黄金虫、「黄金虫は金持ちだ金蔵建てた蔵建てた、子供に水
飴食べさせた」

昔々の歌はその時代を表します。お米からつくる水飴は高価なもの、お金持ち
の黄金虫しか食べさせられなかったのです。

黄金色にはなかなかご縁のない生活ながら、小金持ちくらいにはなってもみた
いと思います。


 

萌葱色

カテゴリー │色字典



日本の色とは長い間生活の中で見つけられた色、自然や季節を大切にする日本
人の心を表しています。

色と名を見て何が書けるか挑戦してみたいと思います。

今朝は萌葱色、昨今では「萌え~」と伸ばされて使われ脚光を浴びた萌えです
が、本来は草木の芽吹きを表す言葉、長い冬を越えた知らせを喜ぶ心を表して
います。

色の名も萌える葱(ねぎ)の色。
畑で一番に強い作物が早い早い春を告げるように生える葱は春待ちの心にしっ
かりと映ります。

冬は固く黒い土、その凍る土を持ち上げて春を告げる葱は私たちの春への期待
を代表しているのです。

葱類は薬味に使います。冬の土の匂いがする牛蒡をたくさんに入れたトン汁に
葱があるだけで春がやってきます。

萌葱色と名づけたこの色を纏う頃は春待ちの期待が膨らむ頃でしょうか。
心を色に表す名前、これからの次代でも使ってみたいものですね。


 

古代紫

カテゴリー │色字典



色の名は移りにけりな、それぞれの年には流行の色があるそうですが、日本
の色にも次代の色があったと想像しています。

日本の色とその名から何か書けないかと挑戦しております。

今朝の色は古代紫です。

色の名が生活の中から生まれたものなら紫は何の色を見て生まれたのでしょ
う。茄子を冠する紫があるように、紫も同じ紫をなんらかの植物などを見てつけ
られたはず。

既にある紫に対して少し昔の紫があり、昔の紫は古代と呼ばれることになった。
これも変わりつつある時代の中で新しい紫が生まれて名づけられるということが
行われたのでしょう。

紫は高貴な色、偉いお坊様の袈裟の色。

どの色が生まれ名づけられてもそれを着けるにふさわしい者がいたはず。
気品のある紫が染められた布はそれなりの人がつけていたのだろうと想像して
います。

色は次代で移る。古代なる紫の色は決して無くなることなく今に継がれている。

大切な伝統色を残し続けるのも、色を作る人たちの心であったろうと思います。


 

薄桜うすざくら

カテゴリー │色字典



木曜にギャラリーRoundtableで開催されています小間物屋ぶん屋の春待ちの
小間物展に行ってきました。

ギャラリーの茶室に広げられた半襟(和服の襟元を替えて楽しむ)などを見せて
いただくとその色の名を表すことができない。
日本の色には長い伝統があり、色の名があります。

それぞれの色を見て何を書けるか、そんな挑戦をはじめています。

今朝は薄桜(うすざくら)です。

前回の同系色、桜色では桜は花を見上げるからより色が薄くなると書いており
ますが、桜側から見れば春のはじまりを濃い色では飾りたくない。
日本を代表する花でありながら、桜はつつましやかな色で春を表そうとしており
ます。

桜は私は桜色よとも、桜色は私の色などといわず、ただそこに群れて咲いて春
が来ましたよと教えてくれる。 日本人同様とてもつつましやかなのです。

自分の名をつけられた桜色に、ちょっと照れまして薄く頬を染める。
そのような色が薄桜色でしょうか。

色白に薄く染まる色、はんなりと香るような色は、桜の心を表しているのでしょう。

守ってあげたいですね。



 

枯茶からちゃ

カテゴリー │色字典



季節によって樹木の色は変わって見える。夏には照り輝いてみえたような木の
幹、木の枝も冬の斜めの光りでは真っ黒に見えることがあります。

日本の色とは季節の光にも名をつけて楽しむ色、花だけでなく花の行く末まで
を楽しむのが日本の文化であります。

そんな日本の色を見て感じて何かを書けないかと挑戦しております。

今朝は枯茶(からちゃ)です。

いつのまにか、本当にいつのまにか50歳を超えましてちょっと老いの楽しみを
感じる時、かつてより全てのものに愛しさを感じるようになる。
親を見て、自分を見つけてみたり、親に似てきた自分を感じたりすれば、自分が
今なにをすべきかを知ることとなる。 親孝行はできる時にしなくてはいけません。

さて枯という要素は花の行く末でありますが、花は花である時に花の美しさを
漫然として過ごしてしまうことも多いようです。
それでも当世流行のようにどの時代にも美しさはあるのです。

それは積み重ねた年月という色であったり、品であったり、内から出る経験という
自信であったりします。
「枯れてきわたね」は褒め言葉でもある。

枯れという季節を楽しむ私たち、ますます「裡」から輝かなければなりません。

注:「裡」は当初の「内」から書き直したものです。
お教えいただきましたけいこさん、今後ともお教えいただきますようお願いいた
します。ありがとうございます。


 

櫨染はじぞめ

カテゴリー │色字典



私の師匠の一人に、着物と帯の大黒屋さんがいらっしゃいますが、惹き付けられる
ように通い出し、着物を作る感性を養う方法として一年の光を見ることを教えていた
だいた。

毎日毎日の光の中の身近な自然を見て光を知り、続けることで一年を知る。
光は一日もさぼることなく変化し続けているのです。

遅ればせながら光の中の色を知りたいという思いもあり、日本の伝統色の名とその
色を見て何かが書けないかと挑戦しております。

今朝は櫨染はじぞめです。

櫨とは櫨(はぜ)のこと、漆のようにかぶれる漆の一種だそうですからその紅葉を
楽しみながらも触ることはご法度であります。

櫨染という名でこのかぶれの木が染に使われたのだろうかと想像することができ
ます。
各地の土産などで草木染めなどを見て楽しんでおりますが、古来より染料として
さまざまな自然の葉や樹皮などから色を取り出しては染めていた頃があったので
しょう。

はじぞめ、高貴な黄色金色のその色を果たしてどのようなものに染め上げたもの
か想像しています。色は組み合わせ、重ね合わせなり、これを糸に染めて刺繍な
どにも使ったのでしょうか。

染めという言葉に、私たちは心染まることを想像します。
何かの色に染まる、その色に染まる、染めし頃、色を探す言葉は私たちの心の中
に生きています。


 

花緑青はなろくしょう

カテゴリー │色字典



日本の伝統色とは愛されて継がれてきた色を言います。自然の光の中の色を
見つけては名をつけ、毎年その色を楽しんできた日本人の感性がそこにはある。

その色も名もおもしろい日本の伝統色から一色を取り出しては何が書けるか挑
戦してみる。

今朝は花緑青(はなろくしょう)です。

寺やお宮のような建築が進むと屋根葺き工事となる。そこで使われるものに銅
(アカ)があります。
もちろん裕福な家の普請にも使われまして軒の上を葺いたりする。
高価な銅板(アカ)が使われているのは富を表すことになります。

板金屋さんがこしらえてきた銅がねをトントンと葺いていきますと立派な普請と
なる。新築中には銅(あか)く眩い光を放っています。

この銅、建物の竣工した頃には眩いものですが、落ち着くと共に独特の青緑色
の錆びが出てまいりまして緑青(みどりあお)そのものと漢字をあてまして緑青
(ろくしょう)と言う。

大仏様にも使われておりましてあの色は私たちが大切にしてきた高貴かつ高
価な色を表しています。

錆びてこそ愛されるのが銅貼りのすばらしさ、この場合錆色のほうが立派に見
えますから狙いの色となります。

銅が多いから立派な普請だな。そんな普請に出会いましたら建築する人のさら
なる狙いを知ることができる。
錆は歴史、家の歴史であり、美しく長く栄えますようにとの祈りの色です。

さらに花を添えまして華やかにする。色は変わりて長く留めることとなる。
全てに通ずる祈りの色であります。


 

茄子紺なすこん

カテゴリー │色字典



日本に伝えられてきたさまざまな色を伝統色と言う。伝統とは伝えられてきて今に
到る私たちの生活を指しています。

日本の国技は相撲、日本人だけでなく広く外国選手に門戸を開き、伝統を守る今
も相撲を後世に残し盛んにしようとする行動であります。

モンゴル出身のお相撲が強いようですが、大関あたりに有望かつ若いお相撲がお
りますとまた私たちには楽しみなもの、今後期待したいものです。

かつて相撲のまわしは黒と決まっておりましたが、カラーテレビとなったからかやは
り興行的な美しさを求められるものかまわしも黒意外の色を見かけるようになりま
した。

その中の一色がお馴染み茄子紺であります。

夏の畑にキュウリなどの緑一色であればさみしいもの、そこに茄子の色がありまし
て引き締めている。江戸の夏の菜に「かくや」というものがありますが、キュウリや
茄子の浅漬けをトントンと刻んでしまっていただきます。

茄子の紺色は食欲の色でありまして緑の中の色の冴であります。

浅漬けの茄子をキュッと絞りましてトントン、トントンと刻むその味、その絞り汁の
色、身近でいて引き締めてくれる美しい色を茄子紺と言う。

寒となり茄子を望む季節ではありませんが、私たちが愛する茄子の色と言えば親
しみは格別のものであります。

茄子で一杯などいかがか、残念ながらまだ朝のうちであります。


 

飴色あめいろ

カテゴリー │色字典



一年は365日からなり、一日いににち光と共に進む、私たちはその中に大いなる自然
の一部として暮しています。小さなものも人間も同じ条件の光を浴びて生きている。
どれも特別なものではないのです。

その光の中の仲間に色の名をつけて呼んできたのが私たちの伝統です。

今朝は飴色(あめいろ)です。

飴を字引いてみますと過去には阿米と言ったという、文字通り米のでんぷんから作り
ましたものを飴と言った。
黄金色の際にもお話しましたように、大切な米を二次加工した飴は贅沢品の極みで
あったろうと思います。

じつはときどきこのブログでも登場いたします馴染みのお店、浜松の肴町に林麹店
(林こうじ店)がありますが、そこで水飴を売っております。
水飴などもう食べることもなくなりましたが、年寄りが好きで買っておりますが、これを
箸にとりましてクルクルと回しますと透明な飴に色がついてまいります。

それを口に入れて自然なる甘さを楽しむ。食べるまでの懐かしい段取りを経て食し
ます水飴の甘露なこと。 懐かしいと思われる方はお試しください。

浜松には春と秋にお鴨江さんの縁日がありまして、ここでは芋飴を売っている。
最近は黄金虫のような子となりまして、子ではなく親に飴を食べさせております。

飴色とは美しい甘さの色、そこに懐かしさが加わりましてえも言われない美味さとな
る。色と同時に残していきたい飴の味がございます。

くるくる回して口に入れてあげましょうね。


 

黄朽葉色きくちばいろ

カテゴリー │色字典



光の中に落ちている全ての色は自然の中にあります。その色には勢いの季節
があり衰えの季節があり、それを繰り返して一年をおくっています。

日本の伝統色には旬や盛りだけでなく、変わりゆく色を表すものがある。

今朝は黄朽葉色(きくちばいろ)です。

冬に向かう植物公園をあなたは歩いたご経験があるでしょうか。
遮る葉を落として高い高い空が見えてきた頃の公園ときたら、葉の降り注ぐ道
が続いています。

既に落ちた葉は歩みと共にカサコソカサコソと音を立てます。
風が吹けばくるくると舞い上がり、またコソッと仲間の葉の上に落ちてくる。
そこをどんどんと歩くウォーキングの人が行くのです。

私たちは色づく葉を一様に紅葉(こうよう)などと言ってしまいますが、紅葉は
山から降りてくるばかりでなく、市内の公園でも進みます。

大きなホウの木の皿のような葉は珍しい葉です。どこから落ちたのかなと顔を
上げればまだ枝についたホウの木を見つけることができる。

散策路の落ち葉にはみな出身の木があり、それを覚えられるのも秋から冬な
のです。

眩しい夏には私たちに木陰をくれた木たちが、来年の木の葉の子を育てようと
する時、私たちは美しく老いた今年の葉たちを感じることができます。
手にとって見ることなど、思いもよりませんでしたからね。

老いとは美しきことである。思い切りよく後進にその役担うことをまかせ、自ら
はその幹なるものを暖めようと集い、やがては土に還ってゆくのです。

カラカラカサコソと、呪文を唱えながら出身の木を仰ぎ見る朽ち葉たち、思い切
りのよい、よく働いた一生の美しさを私たちは見ることができるのです。


 

翡翠色ひすいいろ

カテゴリー │色字典



美しく澄んだ水の上を瞬間の光が横切ってゆく。先日思いもよらぬ川下で翡翠色
の鳥を見かけ、ラッキーなことにその姿を写真に収めたと聞く。
古来、あの美しいカワセミこそが翡翠と呼ばれていたそうです。

日本の伝統色の中から一色づつ見て想像し、何が書けるかを挑戦しています。

今朝は翡翠色(ひすいいろ)です。

古来中国他の文明に愛されてきた翡翠は玉(ぎょく)とも呼ばれ最も高価な宝石
とされていたと聞いています。
半透明ゆえに、その美しさに触れられない宝石は眺める為にあります。

眺めるは羨望につながり、高貴な者に愛され、私たちはそれをつけた者を崇めた。
以前、翡翠で人型棺を覆ったものを見たことがありますが、翡翠には不老不死に
つながる不思議を感じられていたのだそうです。

男にはダイヤモンドやルビーくらいはわかりましても、宝石には縁がなくどの色が
どの宝石なのかは確かではない。
ながら、翡翠のこの美しい緑は認識できいる。
中国で愛されたように私たちは洋のものより近しく感ずるのです。

翡翠の煌きが一瞬目線をさえぎるからこそ貴重であり、それを写真で手に入れた
者をうらやましく思うこと。

写真に撮れましても実際の生きた翡翠を手にいれようなどと野望を抱くものはい
ない。

美しさとはそのようなものなのでしょう。

貴重なものを玉(ぎょく)という。
玉のような珠のような美しさ健康を私たちは求めている。

自然の中の珠、玉なるものは全ての自然にあり、私たちもまた自然の一部である。
年末に無くすものを考えるべきでなく、新たに生まれるものを思い、新しい年を迎え
ようとしている。

我が親戚にも新しい命が今年2人生まれた。いずれも珠のような子である。
どんな美しい玉よりも貴重なる命である。


 

二藍ふたあい

カテゴリー │色字典



日本の伝統色を語るにまずは色を見て想像する。そして少し調べてみるとそこには
長い月日愛されていた事実を見つける。
今に残る色にはさまざまなストーリーがあるのです。

今朝は二藍(ふたあい)、字のように二回染めの色であります。
二色は藍と紅花のこと、染めは一回にあらず、二度染めてその色を楽しむことがあ
ることを知るのです。

「染」という言葉は衣服を染める他にも私たちの生活の中でさまざまに使われます。
また歴史とはさまざまな色に染められた人々の暮らしであります。

染めると言えば意識を持って人や人々を洗脳することかもしれません、また気づか
ずその色を刷り込むことかもしれません。

染まるならば、意識ありなしに係わらず環境となった暮らしに同化してゆくことかも
しれません。

人は一色には染まりません。さまざまな経験を通じて染まらない色もあれば、簡単
に染まることもある。
重ねて染まることにより、人は驚くような染め色となる。
もしくは染める側に立つことも多いのです。

平安の頃から愛されたという二藍はひと色に飽き足らず二色目に挑戦する工夫で
す。その色を重ねたらいかになるのか。
そして発見した色を私たちは長く愛してきた。

さて私たちは何色に染まった存在なのでしょう。またさらに染まる色を見つけて自分
の色を完成してゆくのでしょうか。

今年の色重ねを終えて、また真っ白な新年から初めてみたくなるこの時期、次の年
のすばらしい染め上がりに今の色が貢献することを願っています。


 

鴇鼠ときねず

カテゴリー │色字典



日本の伝統色とは多く自然の中に色を求め、自然を再現し纏うことでその色を名づけ
、伝えてきたに違いない。
色の伝承とは古き日本の自然を知ることになるのです。

今朝は鴇鼠(ときねず)です。

鴇と言えば朱鷺と書くようにあの絶滅が危惧され保護されている話題の鳥の色を思
い浮かべます。
学校に通う頃から絶滅危惧は叫ばれ繁殖する人の苦労を聞く、その中で私たちは鴇
の学名を知るのです。

Nipponia nippon

学名を知るとともに、日本の名を冠した鳥を保護しようという気持ちになるのです。

鴇と言いながら鴇色(朱鷺色)にあらず、鼠(ねずみ)をつけているのはどうしてでしょ
うか、その答えになりそうなことがwikiにありました。
繁殖を迎える頃、鴇は首筋から黒い色の物質を分泌し首筋を黒灰に塗るというのです。

Nipponia nipponは真白に鴇色だけにあらず、その首に黒灰を塗りつける。
それはNipponia nipponの繁殖の為にあるというならば、これは鴇が知らせる私たち
の国である。

日出る国ながら「とき」に黒灰の暗雲垂れ込める時があり、それは国家繁栄の為に
は必要なのだと言う。

難しいことはわかりませんが、美しいばかりが色ではなく、組み合わせれば苦難も
ありて生物となすということです。

毎日働いていればしっかりと子を育て食べられた時代は終わり、この時代を生き抜く
には美しさばかりではいけないのだということを私たちは知っている。

古くより伝わる伝統(色)はこれからの私たちの暮らしをも暗示している。
鴇と共に私たちが繁栄してゆくには、さまざまな人々の英知や努力が必要であると
教えてくれているのです。


 

駱駝色らくだいろ

カテゴリー │色字典



色は生活の中にあり、その色を表すには自然の素材からその名をもらっている。
ゆえに色には比喩される対象の名をつけられているものが多くあります。

日本の伝統色の色とその名を見て何か感じたことを書いてみようと挑戦してい
ます。

今朝は駱駝色(らくだいろ)です。

動物園などで駱駝を見ること意外私たちは駱駝を知りませんが多くの物語の中
でその貴重な労働力、搬送力となった駱駝を私たちは知っています。
最近はエスニックなどという言葉でも表しますが、エキゾチックという魅力を私た
ちはアラビアなどの中近東の国のお話で覚えています。

また銀の月の光を浴びて旅をする王子様とお姫様が駱駝に乗ってゆく様子は
物悲しい「月の砂漠」の歌で思い出すことができます。

駱駝といえばこの季節、私も含めたおじさん族からすれば股引のこと、最近では
この「股引」が読めない方もありますが「ももひき(ズボンの下に着用する長い
肌着」のことを言います。

本物の駱駝の毛でつくるものもあるそうですが多くはウール(毛)ですから、寒い
冬にはもってこい、ズボンの裾から見えてしまうと「わー」とおじさんなのがバレ
てしまいますが、暖かさにはかえられません。

寒い時期の銭湯などにいきますと、ズボンを脱いだおじさんが駱駝を着用してい
る。若さではズボンだけで充分でも暖かく過ごすこの肌着があるとじつはうらやま
しい季節もあるのです。

駱駝は貴重な労働力です。労働する私たちも駱駝のようだなんてことを言います
と卑屈になってしまう。ポカポカの肌着を着て男たちは働く、これを見ておじさん
くさいなどと言ってはいけません。

しかし最近の女性が下半身に着用するあの長い肌着はなんでしょうね。
スカートの下から伸びる足に暖かそうなあれ、おやじの駱駝と同じようなものだ
と思うのであります。

暖かいんでしょうね。


 

山吹茶やまぶきちゃ

カテゴリー │色字典



日本の伝統色の色と名を見て何が書けるか、18日目で大晦日となりましてこの
色字典も今年は終了です。

今年の最後は山吹茶(やまぶきちゃ)です。

自然にある色を私たちは愛する。愛するゆえにその色に名をつけ、我が物にしよ
うと染め色とする。そして伝えられているのが伝統色です。

その中でも大晦日ならではの目出度い色が山吹の色となる。

古来より大判小判がザクザクとなればその色は山吹色となりまして今年最後の
福の色であります。

かつて大晦日はかけ取りの日でありまして、米味噌醤油、酒に魚に薪炭などは
それぞれの業者につけで買っておりまして大晦日にはその掛取りにやってくる。
落語などにはその様子がよく描写されています。

一文もないなんて家が舞台になっておりまして面白おかしい話になっております。

せめて大晦日、誰も彼も豊かとはいきませんが、色だけでもザクザクの色がよい。
山吹茶に偶然にあたりまして、目出度いものであります。

師事いたします大黒屋さんは言います。

光は大晦日まで濃くなっていきます。最後は赤い光りもチョコレート色、小豆色に
まで深まってくる。
そして元旦になりますと、真っ白なシルバーの色となって降ってまいります。
何事も大晦日で深まり、元旦は全ての始まりとなるのです。

来年もさまざまな伝統色を見てその名を知り、ぶつぶつと書いてまいりますが
お読みいただければ幸いです。

山吹色は大判小判がザックサク、目出度い大晦日をお過ごしになりますよう
お祈り申し上げます。
来年(も)よい年にいたしましょう。


 

青緑あおみどり

カテゴリー │色字典



あけましておめでとうございます。

私たちを包む光の中には多くの色があります。その色に名前をつけて呼んでみた
いという気持ちが多くのモノを生み出しました。
私たちは多くのものを愛し、それを身に引き寄せることで文化を花咲かせてきた。
日本の伝統色を知るとはその歴史を遡ることでもあります。

新年最初の光の色は青緑(あおみどり)です。

色深まりて年末を迎え、山吹の夢を見たところで新年となる。

新年から光は降り注ぐものとなります。
私たちの春待ちの気持ちは次第に高まり、光は希望であると認識する。
私たちが待っているのは新しい緑なのです。

緑の子たちは土の中に含まれています。まるで土の一粒のようになって新しい
春を待つのです。

私たちも光の中の一粒です。たった一粒であることを私たちは知っています。
ゆえに一粒は集まって暮しています。
寒い時は共に耐え、暖かい時には一緒に手を広げて太陽を浴びるのです。

私たちは梅が咲くことを待っています。新しい緑を待っています。
また小さな芽が確かに双葉となり葉を広げられることを知っています。


 

京紫きょうむらさき

カテゴリー │色字典



1月2日、今日は一年に一度母方の在所に親戚一同が集まる日です。
母の実家を継ぐ叔父は60歳、従妹は二人とも女でしたが、今年男の子の孫が二人
産まれ、在所ではじつに60年ぶりの男児誕生となったのです。

赤ちゃんの誕生は家系の伸びを与えてくれます。海外赴任や仕事で例年は全員が
揃うことがありませんでしたが、今年は全員が集まるうれしい日です。
二人の男児

さて日本の伝統色、今朝は京紫(きょうむらさき)です。

伝統色に興味を持ったのは師事する大黒屋さんとの出会いからでした。
選んだ京の職人に友禅をつくらせる大黒屋さんは一年一日いちにちの朝夕の光を
写真とひとことでブログに綴っていらっしゃいます。

ある日、京でつくる着物を浜北の散歩道で出会う花などで表せるのでしょうかと尋ね
たことがあります。

すると大黒屋さんは「どこにいても光は平等に照らすんだよ」と教えてもらいました。

浜北の自然も京の自然も同じ、光を感じ知ることができればいずこでも同じだと言う
のです。

色は光の中にあり、その光は平等である。浜北も京の自然も同じなのです。
京の紫をわが地で見つけることこそすばらしき。

今年も光を見つめてまいりましょう。