栃茶とのちゃ

カテゴリー │色字典



少し田舎、山の町に行けば栃の実を使ったお菓子がある。栗に似た大き
な実はどんな風に実り落ちているのかは知らない。

日本の伝統色のその色と名前を見て何が書けるかに挑戦しています。

名物栗ほどには勧められず、ひなびた町の知られざる名物である。
栃はそんな役どころが似合い、栃のお菓子は使われる。

友が山の道に興味を持っている。僕は山の人の話をする。
古来、山に住む人と平地に住む人は別れていたという。

生涯、山の人は平地には下りず、山と山を結ぶ道を辿って別の山の人
と暮らす。平地の人はまた逆に山には行かないと聞く。

ゆえに山と山は細い道ながらも全て結ばれていると言うのです。

山へ行くと失礼ながらどうしてこんな山の中に?と思うところに
住む人がいる。その家の前の道は必ずどこかの家の道につながり、
どこかの家はまた山の道で結ばれている。
ゆえに平地に下りる必要などなかったのです。

静岡県にも大きな川沿いに山奥まで集落がある、川はやがて山に
消えても、川の細い筋のように道は別の川がつくる山奥の集落に
つながっている。

人類学者はそう言い、それを覚えているから山奥で家さえ見つけ
ればその道はどこかにつながると確信する。

ドキドキして辿る山の道はやがて家のあるところに通じている。
面白いことに山道に花が見えてきたらきっと家がある。
これはどの山の道でも共通している。


 

薄藍うすあい

カテゴリー │色字典



薄藍の祭り衣装をこしらえたことがあった。それは藍より薄く涼しげ
であったのだけれど、自分が汗かきであることを忘れていた。
一番盛り上がる時に汗を気にするほどばからしいものはありません。

日本の伝統色のその色と名前から何が書けるかに挑戦しています。

涼しげで軽いものをサッと着こなす技はまた生き方でもある。
真夏に涼しげな顔をして歩いているその格好よさに憧れる。
何にも終われず、余裕を持ち、決して急いだり多くを望んだりはし
ない、されどその余裕は人を惹きつける。
そういう人はいるものである。

真夏の日盛りにパナマの帽子をかぶり、汗もかかずにそこに立つ。
見た目にも涼しげなががら、生き方に憧れるのである。

かたや頭髪の中にまで汗をかき、湯気が立ち陽炎も立とうという
汗かきは薄物などでは通ることができない。
汗どめの下着をつけ、それでも通る汗をぬぐって歩き、暑い暑い
といい、水を多量に補給する。

まるでSLである。

薄藍の衣装は汗を浮かしてしまう、汗のしみを気にしては祭りは
できず、結局脱いでしまう。
祭り衣装は働く衣装である。汗かきには汗かきの衣装が似合う。

飄々と生きられず、全てに濃い口ならば濃いものを着けていれば
よい、まだ汗をかいて走り回るのだから我は修行中であるのだと
思えばよい。

そしていつか飄々と歩いてみるのだと憧れたらよい。


 

美容と理容の違い

カテゴリー │友達100人できるかな



黙って座れば夏仕様男にしてくれる。

月末月頭はお馴染み連尺のBOSSこと哲ちゃんの店で散髪です。

今日の話題は美容と理容の違いを考える。

哲ちゃん曰く、美容は容姿を美しくすること、理容は容姿を整えること
と教えてもらいました。

美しくはなれませんが、少し整えて街を歩く。

頭を整えれば気分も涼しくなる。
さて仕事を整えに帰りましょう。

哲ちゃんがいつも若々しいのは毎日整えているからでしょうか。
さて哲ちゃんは何歳に見えるでしょうか?



 

母と聴く夏

カテゴリー │よろずオススメ

「八月になれば鳴きますよ」
現在取り組み中の「第7回浜名湖フォークジャンボリー」の吉田事務局長
に分けていただいた鈴虫が鳴きだした。

春の鶯と同様に若き鈴虫は「ささ鳴き」のように練習をしている。

ふるふると羽を広げて空気の振動音を立ててから「リーンリリッ」と鳴く。

一昨晩から鳴きだしても少し耳が遠くなった母には聞こえない。

今朝は朝から鳴き出したから籠を覆って食卓に置き、テレビを消して
母と待つ。

「あっ聞こえた」
覗きこんでいた母の前で羽を広げた鈴虫が鳴いた。

「鳴いた鳴いた聞こえた」

母は毎日茄子とキュウリを渡してくれる。それを切っては串に刺して
あげるのは僕の毎日の楽しみだ。

「鈴虫スズムシ霧吹いてあげよう」

母は秋の虫の歌を思い出して歌い出す。

「松虫はなんて鳴くの」

母は鈴虫が聴けて喜んでいる。すっかり虫の鳴き声ファンになっている。



 

若草色わかくさいろ

カテゴリー │色字典



子供が小さいうちはどこに行っても迷惑をかけるから、広い公園の芝の
上にでも連れていき、弁当も持参で遊ばせる。
子供などどこでも遊べ、家以外のところで気分転換して遊ばせれば夢中
となって疲れて夜はよく眠る。そんなことを若い父親は考えていた。

日本の伝統色のその色と名前を見て何が書けるかに挑戦しています。

時は流れ、中年はたまの居酒屋を楽しんだり、外食に行けば夜遅い時間
にもかかわらず連れられた小さな子供をみかける。
子供たちはかつてよりさらにストレス社会に育っているから、時に落ち
着きがなく騒ぎ、その親も困りながらも放置する。

子供がいる店が苦手なのは、注意しようにも親が気遣っていないからだ。
一見の親に諭すくらいなら、その店に身を置く愚かさに気づけばよく、
そそくさと退散する。

かつて若者たちも公園をその遊び場としていた。
多くの歌には草原や公園がその場として描かれている。

子供の頃から野に遊べば花をつないで首飾りができる。幼い日の知識や
経験は青年時代に生かされ、その女の子が心やさしくそういう遊びをし
ていたことを青年は知る。
知らない一面を発見して喜ぶことは恋の楽しさの一つである。

ほんの普段着のウェディングドレス、ベールの代わりの若草の髪飾り、
こんな歌詞の歌を思い出している。

小さな鞄に詰めた花嫁衣裳は故郷の丘に咲いてた野菊の花束、この歌詞
もしかりである。

若草色のレンゲの花畑の中に寝転んだ少年は、その青臭い草いきれを
胸いっぱいに吸った。そんな思い出がある。


 

海老茶えびちゃ

カテゴリー │色字典



水が恋しいこの季節、ちょいと昔の遊びを思い出している。
天竜川は治水の行き届いた大河である。その下(しも)の河口に近い
ところに楽しみがある。

日本の伝統色のその色と名前を見て何が書けるかに挑戦しています。

ある日釣り好きの友人の作業場を訪ねると小さな手網を見つけた。
細いテグスで編まれたような小さな手網は「手長エビ」用だと言う。

そのエビは河口に近い半分沈んだようなテトラポッドのあたりに棲
み、簡単に獲ることができると言う。

額にゴムバンドでつけるスポットライトをつけ、岸から顔を出して
いるテトラポットの上を歩き、浅いその水に光を向ければ手長たち
はそこにいる。

光があたれば目が光るからそこにいることを容易に見つけることが
できる。その背側、尾側にその小さな網を入れ、少し追えばエビた
ちは予想どおりに後づさりして逃げ、網に入る。
面白くて続けるうちに、深夜となるの図である。

漁という行為は楽しい、そのテトラという漁場を友と独占して狩る
楽しさは格別で、小さなバケツで長い手をこんがらがらせたエビを
持ち帰り、洗っただけでカラリと揚げる。

これをパリパリと食うのは野生食いである。

やがて友はそのテトラから足を滑らせて足を怪我した。
にわか漁師など簡単にそれにビビリ、治ってから誘われても危うき
には近づかないのである。

ゆえにカラリもパリパリにもありつけない。
それを思い出すのみで、独りで漁をする勇気もない。


 

緋色

カテゴリー │色字典



今は真夏、世の中は緋色である。
まぶたを閉じて野原に寝転べば強い日の光りで緋色なる世界を見る。
私たちには緋色の血が流れている。そして生きていることを実感する。

日本の伝統色のその色と名前を見て何が書けるかに挑戦しています。

かつてホーキング博士でしたか、身勝手な遺伝子の話を読んだ。
遺伝子から言えば私たちの体などは自らの命を次世代に繋いでゆく乗
り物に過ぎず、ゆえに私たちはさまざまな衝動を起こす。
恋もそうであれば、もっと不倫理や不道徳なことも同じだと説く。

そして今、私たちは容易に遺伝子の企みに乗らないという風潮もある。
生物は遺伝子の乗り物にはならず、自らそれを拒否する場合もある。
遺伝子は困れど、その数も読んでいるとしたら我々は数を減らしてゆく。

人は愛情に育まれ生まれ、その後は多くの人に育てられている。
多くの影響を受け、またそれらの要素を多く含みつつ自己を作り上げ
てゆく。
されど他の生物と同じようにその体はさほど強くもないのだが、自己
を守る知識と、仲間に相談するという策を持って生き延びる。

今年は特に暑い、暑さのためにたった一人で死んでゆく人のニュース
を聞いている。
私たちはこの夏を乗り切るために、人に声をかけることができる。
また声をかけられてて乗り切ってゆく。
暑さの孤独から「大丈夫か」と声をかけて乗り越えていきたいものだ。

まぶたの裏に流れる血よりも暑いこの時期に、誰もが与えられるのは
気遣う心だ、言葉だ。秋を迎えるために必要なのはただ言葉だけだ。
たとえしがない乗り物だとしても、私たちは声をかけあって生きて
ゆく。


 

宗伝唐茶そうでんからちゃ

カテゴリー │色字典



色で名を残すことなど想像もできないまでも、宗伝唐茶とは江戸時代初
期の京の染師・鶴屋宗伝が染め始めたと言う。
そして今に伝えられている。

日本の伝統色のその色と名前を見て何が書けるかに挑戦しています。
流行(ファッション)とはそれをリードする人がいて成立することが
多く、それらは役者(多くは歌舞伎)が担っている。
着物を着ていた時代にはそれは染め色がその要素となる。

役者の名を冠せず染師の名が残るとはまさに職人冥利につきるのである。

友人が茶室を作ったと聞き、「茶」に興味を持てば雑誌「PEN」が茶の
特集をする。茶の途に「利休」あり、利休をもってして「利休好み」の
茶道具類があることを知る。

ものの興味とはきっかけがあり、興味はモノを引き寄せる、そして興味
を持って眺めればまた深くなってゆく。

「好み」という言葉は見識がある言葉で、人物の見識を表す最高級な表
現である。

現代ならばセレクトショップは客に似合うものをあらかじめ選び仕入れ、
もしくは作って待つ。その店で買えばあるレベルに達することを知る人
はそこに通う。 店の好みをつくるプロに自分を任せるのである

久しぶりに別の友人を思い出した。
彼は「好み」を店の商品選択の例えとして使うと言った。
さて、久しぶりに覗いてみようかとも思う。 好みは成長するものだ。
そしてお客に妥協をしないものなのだ。



 

青あお

カテゴリー │色字典



原色のその色名はその色の全ての要素を含み、ゆえにその名に何かを
つければより印象的な言葉を生み出すことができる。

日本の伝統色のその色と名前を見て何が書けるかに挑戦しています。

「青」はどのような話も書ける可能性を持つから、今朝は潜水艦の話
とする。それは小沢サトルさんの描いたサブマリンの話である。

近くは「沈黙の艦隊」にあるように潜水艦は残された未開の地、大洋
を拓いてゆくものであり、それは平和利用に活用されるべきと漫画は
説く。戦いあれどそれは平和のための途であると書けば、少しきなく
さいながらも「青」い海はそれを清める効果がある。

青の6号という作品があり子供の頃に潜水艦に目覚めた。
同じ戦いであれど、空中や陸と違い、海の中はソナーなどによる「情
報戦」であり、手探りの勘で戦うブラインド戦である。

座頭市のように、勘を研ぎ澄まし、音を聴き全てを判断し居合いの気
迫で戦うのに似て、精神論があり、知識と経験があり、判断がある世
界に憧れた。

独りは多くと共に暮らす、精神は独りから生まれコミュニケーション
に至る、その精神は全て他人とのコミュニケーションから育つ。
座頭市も青の6号も独りの心を描き、他とのコミュニケーションする
心のさまを表した。

青は澄んだ色である。まるで独りの心のように澄んでいる。
ゆえに心眼は間違いのないものを見ることができるのである。


 

抹茶色まっちゃいろ

カテゴリー │色字典



縁ありて静岡茶の中で独自のブランドを持つ掛川の深蒸し茶を生産する
東山茶業組合のお手伝いをしている。

手摘みから初市、茶摘みから加工まで拝見しながらさまざまなものを撮
り書いている。東山は南アルプスの南限と言われる粟ヶ岳のすそ野に広
がる茶園である。

新茶を飲む方はその湯のみに浮かぶキラキラとした粉のようなものに気
づかれているだろうと思います。

あの粉は”みる葉(みる=やわらかく若い)”の金色のうぶ毛が茶に含
まれたもの、ゆえに一番茶(新茶)に多く見ることができます。

そのみる葉を加工するお茶工場は茶園の中に建ち、摘んだばかりの茶葉
を加工するから、この金色の産毛たちは工場におびただしく舞い上がる。
外からの光りにキラキラと光り、そこらかしこを埋めてゆくのです。

お茶の季節が終われば大切な加工機械は徹底的に掃除され水で清められ
ます、高速で噴出した水に洗われた機会からは積み重なった産毛の埃を
洗い、お茶色の水となって流れ出してゆくのです。

飲むことはないお茶の緑をシャッシャッツとブラシで流し出してゆくそ
こにもお茶の香りは残る。
また次の稼動は秋、お茶工場は秋の番茶シーズンまで夏はゆっくりと休
んでいるのです。


 

紅檜皮べにひはだ

カテゴリー │色字典



山から伐りだされる丸太を原木(げんぼく)と言い、地元浜松の北に
広がる天竜美林は原木の産地である。

日本の伝統色のその色と名前を見て何が書けるかに挑戦しています。

「持ってきましたよ」と山から原木を伐り出す人に”てぬぐい”を
数年来お持ちしている。浜松まつりの時に参加170町あまりがそれぞ
れに染める町内てぬぐいは美しく、祭り小物の一つとなる他、他町
への挨拶にも使われる。

その数本を持って現代の”きこり”さんたちにプレゼントするので
ある。

タオルの時代にてぬぐいを用いるのは頭に巻き、その上からヘルメ
ットをかぶったり、そのまま汗どめとして頭に巻いたりと使い途が
あるそうだ。
今年はまた茶農家のお年寄りにもお持ちすると重宝がられた。

やはり厚手のタオルの他に、てぬぐいには伝統的な使われ方がまた
別にあることがわかるのです。

これは杉ですか檜ですかと原木丸太を見て尋ねる。
素人には丸太の年輪を見てもどちらとも判別がつきかねる。

そんな時は鼻を近づけてあのひのきの香りをかげばよいのである。
森の匂いがする。森の清潔な香りがする。
原木のそれは強く、その力を感じ、製材された後の柱や建材より値
打ちがある。

あんなに喜んでいただけるなら来年もまたいただいた数本を持って
山を訪ねようと思う。
使って洗い、洗っては使ったてぬぐいは煮しめた色となりやわらか
くなるのだと言う。

さまざまな目立つ色の手ぬぐいを被ってきこりたちが山林を歩いて
ゆく、そんな想像をしている。


 

深緋こきひ

カテゴリー │色字典



つくり守られてきた色を眺めると共に呼ばれてきた名前を鑑賞する。
色巡りはこんな楽しみも併せ持っているのです。

日本の伝統色のその色と名前を見て何が書けるかに挑戦しています。

「その色と名前を見て」がそれにあたり、そう表現している。
今朝の色は「深緋(こきひ」にその面白さがあらわれています。

赤と原色の象徴色の名を言ってしまえばこれは何色かのクレヨンを
持つ幼い子供と変わらない。
この濃淡で「紅」と言ったり「緋色」と言えばここに文化を想像す
ることができる。

酔うのに晩酌や居酒屋で済ますことができるのにBARの磨きあげら
れたカウンターに座るがごとし、少しこだわってみるのが楽しさの
一つです。

薄い色である濃い色であるとそのままに使わず「こき」を「深」で
表せば、ここに色名を考える糸口があり記憶させる名付けの技があ
る。知らねば読めぬ専門の言葉が生まれている。

「深緋」を作り上げた人はその名と共に文化を一つ開くことになる。

赤の濃き色と言わず「深緋(こきひ)」と言ってみる。
それを知る人は頷き、知らぬ人はその言葉の楽しさを知る。

色巡りは色名の楽しさを知る旅なのである。


 

柴染ふしぞめ

カテゴリー │色字典



色の話を書いていますよ、などと言えば確かに勘違いもおこる。
ここは決して「色っぽいお話」を書いているのではありません。

日本の伝統色のその色と名前から何が書けるかに挑戦しています。

色名を見て、はて、調べてみたいなと思うことがあれば検索して
しばし楽しむ、ここに書かずとも面白いことを知ったり想像した
りする。これが「色」の楽しみである。

柴とはなにか、「柴(フシ)とは栗、櫟、樫などの雑木のこと」
とあれば、柴刈りお爺さんならば雑木の枝を拾いに行ったことに
なり、薪にもし、その枝などを使って染めも使ったのではと想像
する。色話は”しばしば”昔話にも達する考察をしたりするのだ。

山に芝刈りに行ったのならば、その後で殿様がゴルフをするとい
う図となってしまう。

小枝を拾って背負子に負って帰ってくる図は二宮金次郎さんしか
りである。

しかし現代、柴を拾いながら勉強したり、夜なべして働こうとも
決して栄達するわけでもなし、近場の商店が当たり前の商売をし
ていても、県外資の巨大ショッピングセンターにやられてしまう。

おかしな時代である。近所の商店をつぶしても遠くのSCに車で
出かけてゆく、やがて歳をとり、車に乗れなくなることを想像も
しない世代がこの時代の近所店をつぶしてゆく。
そしてやがて、という話となる。
 
当たり前の店が当たり前の金額でモノの商う、それで食えなけれ
ば暮らしはなりたたない、朝から晩までそして深夜まで働けば
それらしい暮らしができるのでなければ世の中はなりたたない。


 

露草色つくくさいろ

カテゴリー │色字典



初めて人のために採った草だから、それも雨の中で採ったから露草の
青は梅雨の雨の色なのです。

日本の伝統色のその色と名前から何が書けるかに挑戦しています。

梅雨の雨の中摘んだから梅雨と結びついてしまった露草は6~7月だけ
の草ではありません、それから秋までずっと見ることができることを
知っています。

毎日毎日花を撮っていた頃がありました。毎日毎日の中にはきっと雨
の日があって、雨粒を乗せた花はとても美しいものでした。

毎日毎日花を探していれば季節はぐるり巡ります、そしてそれが何年
も続けば花のある所を想像できるようになるのです。

たしかこんな季節にあそこで見たはずだと行ってみれば確かにそこに
花がある。私たちが季節のめぐりの中で生かされ、しっかり体と心に
暦があることを知るのです。

露草とは雨の粒を想像するように、そっと咲いています。
そしてその花は梅雨をこえたって見ることが出来るのです。
花撮る毎日に雨の日があれば、その青は「ここよ」と手を振るように
目に入ってくるのです。
そして夏の日も秋の日にも雨粒をたたえて咲いているのです。


 

鶸色ひわいろ

カテゴリー │色字典



鶸は野の鳥、河原の鳥、黄色い小さい小鳥です。
野の鳥はきまぐれ鳥、急に現れては飛んでいってしまう小鳥です。

日本の伝統色のその色と名前を見て何が書けるかに挑戦しています。

鳥を撮ることができる人がいます。
鳥を撮る人と言えば長い望遠レンズを持ち三脚を立てて待つ野鳥専
門のカメラマンがいますが、そうではないのです。

朝夕の散歩に持ち歩くさほど大きくもないカメラで鳥を撮る。
それも景色の中の一つとして収めてしまうのです。

鳥は気まぐれです。たとえ餌採りに夢中の田んぼの鷺さえ、カメラ
を構えてとらえてしまおうという心を読み取ります。
出会っただけでしたらそこに佇んでくれる鳥もカメラを取り出せば
きっと飛んでいってしまいます。

歩いたまま気配も消さず、鳥を撮ることを目的に歩かずとも鳥が
撮れてしまう。その人の写真には景色の中に収まってしまうのです。

鳥撮りをしようと言うのではありません、散歩中に出会ったものを
撮っているだけで鳥は撮れてしまうのです。

撮る人には撮るものが寄ってくる、そんなことがあるようです。
作為がある男になどは撮れないものがそのカメラには写るのです。

写真とはそういうものなのです。


 

栗梅くりうめ

カテゴリー │色字典



栗ならば落ちたイガを靴で挟んでむいてクリッとした実を取り出す。
最近は栗も珍しくないようで、近くの放置された栗園は毎秋、栗が
落ち放題となり、やがて葉も落ちた枝にイガが残る。
冬の枝のイガはまるで猿のように孤独である。

日本の伝統色のその色と名前を見て何が書けるかに挑戦しています。

子供はなんでも拾いたいもので、海に行けば波打ち際に寄せられる
藻や貝を探す、秋の山に行けばどんぐりをさがし、何に使うわけで
もなく蒐集する。

街育ちが少し田舎に引っ越してもどんぐりは珍しい、遠足で行った
細江公園を覚えているのはそこで初めて栗を拾ったからだ。
弁当を食べ終えると散策路を歩き、そこで栗が落ちているのをみつ
けた。小さな山栗のイガひとつ拾っても子供には宝物になる。

今でもそこにはあるのではと栗と聞けば細江公園を思い出す。
それから行ったことがないから、そこがどこかも今も知らない。
ただ山の散策路に落ちていたイガを見つけて見上げた枝にはいくつ
ものイガがぶらさがっていた。

子供の心はそれを強く印象し今も覚えている。
初めて栗を拾った思い出である。


 

紅くれない

カテゴリー │色字典



神輿が通ってゆく、神輿はその造りの豪華さや大きさ、重さを自慢し
あい、町内の勇みを見せて担がれてゆく。

日本の伝統色のその色と名前を見て何が書けるかに挑戦しています。

年に一度の町内の祭り、4年に一度の大祭などでは近隣町内の神輿が
ズラリと並びそれぞれの神輿を担いで通りを埋める。
神輿好きは担ぎ好き、「担ぎ手」と呼ばれる男たちがその力は町内
祭りのみでは足りはしない。

隅田川をはさんだ向こう側には三社祭りがあり、そこに渡りをつけ
て揃いの絆纏を借りて担ぎに行こうじゃないかと話まとまる。

いざ当日となれば浅草に渡り、まずは挨拶まわり、借りた町内神輿
会に挨拶すると、もう一つ挨拶をしにゆくところがある。

三社は男のみの祭りではなく、浅草女たちの会がある。
そこの姐さんに挨拶にゆく。

「浅草紅(くれない)」の姐さんたちがズラリ、若い衆揃って挨拶
すれば担ぎ手の一員となり、また可愛がってもらえるのだ。

どんな祭りも裏を支えるのは女たち、「祭りだい!」と飛び出すに
は切り火を切ってくれる女たちがいる。
「姐さんお願いいたしやす」と挨拶し「がんばりな」と浅草女の掌
に乗せてもらう、男はそして祭りに夢中になることができるのであ
る。


 

丁子茶ちょうじちゃ

カテゴリー │色字典



香辛料の一つであり消毒にも用いるクローブのことを丁子という。

香辛料と聞けば大航海時代、その冒険の果てに見つけた宝石とも交換
されるほど貴重な香辛料を生む土地との交易をしていたというロマン
にぶつかる。

商人ならば、またその才覚ある者ならばワクワクする魅力的な時代で
ある。それを積みヨーロッパに持ち帰り財産を築く野望を抱くのだ。

静岡丸子にあるのが「丁子屋」、ご存知名物とろろ飯の店、仕事で
通り抜けはせど、なかなか寄れない名店はうまいとろろを食わせる。

夏のこの時期、ネバネバと粘り、ベタベタとする食べ物は滋養にな
る。ゆえにネバネバを好んで食べるとよいと言う。

ある居酒屋にネバネバばかりを出すメニューがあり、とろろにオクラ、
納豆などを混ぜて出す、それをビールのつまみにする。

世話好きで話が面白いお母さんが働き、酒飲みのお父さんはカウンタ
ーの角に座ればもう飲みすぎて居眠りをはじめる。

客が来たのはわからないのだが、誰かが帰る時には目を覚ましては
「ありがとね」と挨拶をし、次の瞬間また眠りに入る。
寝ることは体の要求だ、夏の寝苦しさに朝を迎えると、今日こそは
早寝をして寝だめをするのだと決意する。

ところがどこかにひっかかりつつ、また夜更けに目を冴えさせてい
る。そしてまた明日の朝の決意となるのである。

若者と違い、あふれる力がないのなら粘りで勝負する。やはり粘り
ものを食べてネバー(り)ギブアップとしましょうかね。


 

天色あまいろ

カテゴリー │色字典



空が何故水色に見えるかと問えば、深い川の淵を見ろと教えられる。
光の中で最も強く見える色を私たちは認識して青色の空と海を見る。

日本の伝統色のその色と名前を見て何が書けるかに挑戦しています。

月の荒涼とした地平線から青い地球が昇るのを見た。
もちろん自分が行かなくともそういう景色を私たちは見ることがで
きる。

地球は青かったとガガーリン少佐が言う前から予想もついていた地
球の青さは、その言葉によって世界に認識された。

同じ青に見えても海はまた違い、太平洋沿岸育ちの子は200mほど
の大陸棚の向こうとこっちで青の色が変わることを知る。

伊豆の西海岸、海沿いの崖道を南下すれば遠くに白浜が見えてくる。
砂が白い海岸の海の色は格別で、また見ぬ沖縄や南国の島々の青も
かくのごとしだろうと想像する。

白浜に降りて青き色を確認するまでもなく道は白浜を越えて高い位
置に上る、そして振り返った白浜の水はとてつもなく美しい青色を
している。
コバルトブルーなのだと言う。昔々の画家が体を蝕むことを知りな
がらその発色の美しさから重金属を含んだ絵の具を使っていた。

フェメールの青色である。空も海もそんな色をしている。


 

緑黄色りょくおうしょく

カテゴリー │色字典



かつて給食のチーズが食べられない子がいたね、という話になる。
日本人の体格向上と栄養価を考えて給食は作られていた。ふつうの家庭
では出ないようなものが給食にはたくさん使われた。

日本の伝統色のその色と名前から何が書けるかに挑戦しています。

給食で初めてチーズを食べた子は好き嫌いがはっきりする。決して家の
食卓では出ない食品を興味を持つ子と嫌う子がいるのだ。

チーズの不思議味に興味深々な子はアメリカ漫画のトム&ジェリーに出
てくる三角の穴あきチーズをうまいに違いないと確信していてそのチー
ズに出会う。もちろん味より興味のほうが深く、おいしいと感ずるので
ある。

子供に野菜を食べさせようと親が苦労した、サラダなど食べたことがな
い子供は給食でそれを知り、緑の野菜を生食することを覚えた。
緑そのものの味を好んで食べて今にその好みを続けている。

素材として食べたことのないものが給食に出る、調理として食べたこと
のない料理が出てくる。すべからく興味を持ってとりくむ子は親には
そんな食材も料理も期待できない普通の日本の子でありました。

ポパイに出てくるハンバーガーを見ては、あれはどら焼きのような甘い
ものに違いないと考えていた子供は、その数年後に本物のハンバーガー
にありついた。
コーラもジーンズも初めてを経験した。
そして僕らは多くを受け入れて育ってきた。アメリカとの体格的格差や
容姿の違い、文化の遅れを知って育ってきた。

今の大人は僕らの子である。その足は長くスタイルがよく、ダンスが
当たり前のように踊れる子たちである。文化はかくして進むのだ。